摂食問題・飲酒問題があると、いくら飲んでも、いくら食べても「満足」ができない?
カテゴリー:飲酒問題・アルコール依存
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【アルコール依存】日常的な泥酔、摂食問題etc… 良い気なものだ?
アルコール/摂食問題で様々な困難があったとしても、
本人は「少なからず欲しいものは手に入れているのだから、そこでは満足しているのだろう」
そのような予測が立てられることがあります。
・・・食事の快は言わずもがな、お酒の快も大抵の人が知っているからです。
だから、散々アルコールを飲んだ/モノを食べた後、当人は気分の悪さや、その後の後悔などはあれど、その一連に一定の「満足」があるのだろうと想像がされます。
「快」はあるけれど、「満足」がない状態 ・・・満足ができていたら、適量でやめている
現実はどうなのか?
(・・・「酒は不味い」とも言われますが) 確かに、お酒も食事も、「その一瞬だけ」は「快」があります。
あるいは、「どうしようもない不快感」が一瞬でも取り除かれたら、それは快です。

しかし、時には頭の中が真っ白になる程、無我夢中で求めた結果、「満たされるか」というと、どうでしょう?
・・・満たされないから、次から次へと求めてしまうという考え方もできませんか?
「満足できていたら、適量でやめている」
アルコールに、食べ物に限らず、対象に「依存」するということは、その対象をいくら追いかけても「満たされた」気持ちになれない。
そういうことではないでしょうか。
・・・依存対象で「満足」ができないということは?
依存対象で満足ができないということは、今、生活の中から「満足」という概念そのものが失われかけているか、失われているのかもしれません。
「依存」を問題視している場合には、「他のモノで補おう」とする試みがされることがありますが、難しいですよね?
循環論になりますが、それが「依存」なのですから。
あるいは気を紛らわせようと行う「他のモノ」に、お酒や食べ物が連動してしまって、余計面倒な思考に陥ってしまったり?するかもしれません。
話題に挙げられるのは、お酒を飲むこと、飲食を拒否すること、食べまくること、吐くこと、おかしなものを食べることetc… だけど、、
現状を変えようと思ったら、まず誰もが「依存的な行動」に着目して、それを変化させようとします。
変化させようとしてダメだったら、矯正を試みます。(同じ意味ですね)

心理学的に「行動主義」一辺倒の依存界隈では、治療が行われるといったら、どうやって「依存的な行動を阻止するか」ばかり言及されます。
依存的な行動をする(個人内の)理由 ※問題は「必ず」、お酒でも食べ物でもありません

結局、行動の矯正ありきで、「何故依存的な行動をやめられないのか?」には言及されないものだから、思考も行動も「VS酒」「VS食べ物」になって、問題が矮小化します。
あるいは、他者によって勝手に限定されます。
・・・好きで飲んでいるのではなかったら、好きで食べ吐きしているのではなかったら、食餌を拒否しているわけではなかったらetc… 問題は必ず、お酒でも食べ物でもありません。
その依存的行動をすることで、「何を得ようとしているのか?(得ているのか)」
それを考えて、乗り越えなければ(そしてポジティブな結果を出さなければ)、「今」お酒を口にしていなくても、「今」普通量の食事ができていても、不安はどうしても残ってしまうのではないかな?と想像します。
何故なら行動を「矯正」しただけで、問題を解決しようとはしていないからです。
依存的な行動について、真剣に検討する時間
今ココで依存的な行動をしていることには、何か理由があって、目的があって、あるいは目標があってやっているのではないか?
そのような視点は、まったく設けられていません。
誰にも本当のところを話せない理由が「そこ」にあるのだとしたら、是非お声がけ下さい。
どこかのプログラムに当てはめようとする態度は決して取らない、守秘義務の徹底されたカウンセリングを行います。
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ふたついカウンセリングは回復のみを目的とするものではありません。
現在抱えるアルコールの関係する問題の変化、解決を目指すものです。
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